丸山眞男集〈第12巻〉1982―1987本無料ダウンロード

丸山眞男集〈第12巻〉1982―1987

丸山 眞男 / 本

丸山眞男集〈第12巻〉1982―1987本無料ダウンロード - 丸山 眞男による丸山眞男集〈第12巻〉1982―1987は岩波書店 (1997/9/1)によって公開されました。 これには389ページページが含まれており、本というジャンルに分類されています。 この本は読者からの反応が良く、1人の読者から4.5の評価を受けています。 今すぐ登録して、無料でダウンロードできる何千もの本にアクセスしてください。 登録は無料でした。 サブスクリプションはいつでもキャンセルできます。

丸山眞男集〈第12巻〉1982―1987 の詳細

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タイトル
丸山眞男集〈第12巻〉1982―1987
作者
丸山 眞男
ISBN-10
4000919628
発売日
1997/9/1
カテゴリー
ファイルサイズ
20.18 (現在のサーバー速度は27.11 Mbpsです
丸山眞男集〈第12巻〉1982―1987本無料ダウンロード - 内容紹介 平和と民主主義を根源的に問いつづけた戦後日本最大の知識人,丸山眞男の全作品を編年集成した著作全集.1995-96年の第1次刊行に際しては,戦後問い直しの機運のなかで広範な丸山論ブームが巻き起こった.しかし,戦争体制に急傾斜する今日の危機的な日本社会のなかでこそ,本集は熟読されなければならないだろう. 内容(「BOOK」データベースより) 思想史の奥底を流れる旋律を聴く。丸山眞男集誕生百年。
カテゴリー:
以下は、丸山眞男集〈第12巻〉1982―1987に関する最も有用なレビューの一部です。 この本を購入する/読むことを決定する前にこれを検討することができます。
本書(『丸山眞男集第12巻1982-1987』(1996年8月8日発行、岩波書店))も、それ以前の巻同様、興味深い論稿満載で引用大量・コメント少量でたくさん紹介したいのですが、字数に限りがありますので、限られた論稿しか紹介できません。引用紹介する論稿も、書評者の読解不足により、引用箇所が必ずしも最適な箇所ではありませんので、できれば全文を読んでいただきたいと思います。では、「基本的」にはページ順で紹介していきたいと思います。傍点、傍線、まるぼしは、≪≫で代替します。●「歓迎パーティで言わなかった挨拶」(日本政治学会会報、第三号、1982年5月)(P.9~P.12)短いあいさつ文ですが、良いことが書いてありましたので、若干長く引用します。小学生にも英語を教える今だからこそ耳を傾けるべき内容だと思います。まぁ、怪しい「道徳教育」に血道をあげる文部科学省の官僚連中やそれに忖度する教育委員会や校長等の学校関係者に内容が分かるとも思えません、いわんや安倍晋三、菅義偉においてをや、です。「私は数年前に、George Aston の” A History of Japanese Literature ”を再読して、昔読んだときに覚えなかったような感銘を新たにしました。記紀万葉から、明治後の蘇峰や露伴にまで及ぶこの概説書が「世界の文学」シリーズの一巻として出たのは日露戦争以前の1899年です。もちろん今日から見て文献学的な瑕疵(かし)を指摘することは容易です。けれどもけっして日本に≪いかれて≫いません。そのことはたとえば近松を「日本のシェークスピア」とする俗見をきびしく斥けている箇所だけでも明白です。彼が外交官として滞在していた幕末維新から明治前期までの日本には、まわりにペラペラ英語をしゃべるような日本人は殆どいなかったし、しかもそれは伝統的日本がおどろきべきテンポで「文明化」し変貌しつつあった日本でした。彼は、いや彼だけでなく、日本学事始における彼の僚友であった E.サトウや B.チェンバレンにしても、太古から独自のカルチャアをもった日本を理解するに際して、己れとまったく異質的な何ものかに自分は対面しているのだ、という覚悟をもち、その≪他者を他者として≫理解しようと必死になって努力したにちがいありません。それが彼等の古典翻訳や著作にあのような不滅の輝きを与える成果となったのでしょう。そうして基本的に同じことが福沢や兆民の、いや西園寺公望や伊藤博文さえもの西洋理解についてもいえるように思われます。他者感覚-- the sense of "otherness" は、異国趣味とは全く似て非なるものです。エキゾティズムはいってみればパンダにたいする好奇心と同じです。エキゾティックな興味はどんなに観察が微細に汎っても、観察の結果が自分自身にはねかえって来ることはありません。それにたいし、the sense of otherness をもって対象にのぞめば、その成果はたんに対象についての情報の増大にとどまらずに、観察主体にはねかえり、自分たちが自明のこととして使用していたコトバや概念装置がいかに自分たちのカルチャアによって制約されていたかを自覚させる筈(はず)です。異質的な文化間の対等な相互理解への途がこうして開かれます。世界的なコミュニケーションの発達と、とくに英語が世界語になったことによって他者感覚はどうしても希薄化しがちです。他者感覚を喪失した、どこでも要するに大同小異なんだという一種の「普遍主義」を、私は International Airport Theory と呼ぶことにしています。国際空港ほどどこに行っても≪基本的に≫同じ構造をもち同じ恰好をしているものはありません。世界の諸文化--政治文化もふくめて--果して国際空港のようになるでしょうか。また個人と同じく文化も個性(特殊性ではなく!)を失って等質的になることがそれほど望ましいでしょうか。荻生徂徠は江戸時代にあって、われわれが昔から読みなれている論語は日本語と全く異質的な≪外国語≫で書かれているのだ、という宣言によって同時代人に一大衝撃を与えました。けれどもそれによって中国古典の内在的理解は飛躍的に発展したのです。ツーツーカーカー的な普遍主義はかえって深い国際的相互理解を妨げるという逆説を私達はもう一度考えて見る必要があると思うのですがいかがでしょう。」(P.11~P.12)次は、「「基本的」にはページ順で紹介」と言っておきながら、早速それに違反しますが、本書で一番引用したかった箇所を引用したいと思います。●「政事(まつりごと)の構造--政治意識の執拗低音--」(百華、第25号、1985年12月)(P.205~P.239)下記の引用文だけでは、当然理解不十分でしょうから、できるだけ本文を読んでいただきたく。本文も、「図表A政事の図式」の中の言葉、やれ「つかへまつる」だ「かへりことまをす」だ「ことむけやはす」だと「面白い」「訳の分からない」言葉の解説で、それ自体は面白いですが、若干辟易気味ですね。古事記や日本書紀の言葉ですので、致し方ないのでしょうが。古事記や日本書紀は、解説はいざ知らず、本文を、当然訳したものですが、読むことなないと思います。万葉集については、まだ完全に諦めたわけではありませんが(当然、万葉仮名の本ではなく、いわゆる「書き下し」文のものが対象です)。返り点が付された漢文が二つほどありますが、「適切」に書き下し文にしました。それを勘案して読んでください。「政事が上級者への奉仕の献上事(まつりごと)を意味する、ということは、政事がいわば下から上への方向で定義されている、ということでもあります。これは西洋や中国の場合と、ちょうど反対と言えます。ガヴァンメントとか、ルーラー(支配者)とかいうコトバは当然のことながら、上から下への方向性をもった表現です。中国の古典における「政」の用法を一、二示すならば『春秋左氏伝』(昭公25年)の杜預の注に「君在リテハ政ト為シ、臣在リテハ事ト為ス」とあり、また『国語』には「夫レ政上自リ下ル者也。上政ヲ作(ナ)シテ而下之ヲ行(オコナ)ヘバ、逆ナラズ」とあります。政のレヴェルが君にあるとともに、それが上から下への方向性をもつことが明かです。ところが、日本では「政事」は、まつる=献上する事柄として臣のレヴェルにあり、臣や卿が行なう献上事を君が「きこしめす」=受けとる、という関係にあります。そこで一見逆説的ですけれども、政事が「下から」定義されていることと、決定が臣下へ、またその臣下へと下降してゆく傾向とは無関係とは思われないのです。これは病理現象としては決定の無責任体制となり、よくいえば典型的な「独裁」体制の成立を困難にする要因でもあります。さらに、この図式は政事をワン・サイクルとして描きましたため、示してありませんが、天皇自身も実は皇祖神にたいしては、また天神地祇にたいしては「まつる」という奉仕=献上関係に立つので、上から下まで「政事」が≪同方向的に≫上昇する型を示し、絶対的始点(最高統治者)としての「主」( Herr )は厳密にいえば存在の余地はありません。『日本書紀』の一書の一節に≪国造り≫を終った「イサナキノミコト」が「天にのぼりかへりことまをす」という箇所があります。日本の国土と主権者を産出したイサナキが天神(あまつかみ)の≪誰に対して≫「かへりことまをし」たのかは、ついに不明なのです。本日は≪一応≫サイクルの「完了」としてご説明いたしましたが、厳密にはサイクルの完了はなくて、無限に不特定の上級者への遡及があり、「究極的なるもの」は実在しない、ということをつけ加えておきます。」(P.238~P.239)日本の天皇制、政治制度、社会、会社等々、諸々の組織の無責任体制は、神話時代・古代からの伝統であるということでしょう。それが今も連綿と続いています。また、今、国民の血税をいっぱい使って国会なるものが開かれていて、安倍晋三や麻生太郎、それに今度は女では片山さつき、等の「鉄面皮」の面々の恥知らずな顔が、テレビ画面いっぱいに映し出されています、これも日本の無責任体制の「最高傑作」の一つでしょう。言葉や社会や国民が崩れていくだけです、当然「政治屋」自身はとっくに崩れています。●「「日本政治思想史研究」英語版への著者序文」(日本政治思想史研究新装版、1983年6月、東京大学出版会)(P.75~P.103)『日本政治思想史研究』の「欠陥」について、著者として「註釈」がなされている箇所がありますので、そこを、多少長くなりますが、引用します。「五・・・・・ただ、現在の著者の叙述のなかでそのまま放置できず、ミニマムの註釈を附け加えることが必要と思われる二つの論点に限って、手短かに触れておくにとどめよう。第一に本書の第一・第二両章に共通する前提は、江戸時代の初期に、著者のいう「朱子学的思惟様式」が社会的にひとたび普遍化し、その普遍性が17世紀の後半から18世紀初頭にかけて徐々に崩壊して、古学派の台頭によって口火をきられたような挑戦にさらされる、ということである。けれども、この前提はあまりに歴史的進化の考えに捉われているだけでなく、具体的な事実にも正確に対応しているとはいえない。詳述は避けるが、結論的にのべれば、たとえ幕府及び諸藩が、戦国的状況の安定化のために、江戸時代のごく初期からいわゆる「文治」政策をとり、そのため儒学(具体的には概(おおむ)ね朱子学)の利用価値に着目したとしても、儒教の古典及びその権威的な註釈書が発刊されて流通しはじめ、またイデオロギーとしての儒教教義が社会に浸透してゆくのは、ようやく17世紀の後半以後のことである。とくに朱子学の全国的な興隆に大きな役割を演じた山崎闇斎が、京都で彼の自称する純正な朱子学を講じはじめたのは1655年であるが、他方、山鹿素行が大胆に朱子学に挑戦した書物『聖教要録』の刊行は1666年であり、伊藤仁斎が独創的な『論語古義』『孟子古義』の草稿を完成したのは1663年ごろである。つまり、社会的イデオロギーとしての朱子学の普及と、「古学派」の朱子学への挑戦とは、≪ほとんど同時的に≫進行した、とみなければならない。しかも他方で、もし儒学の学界のレヴェルの問題としてでなく、本書にいう徳川社会の視座構造をなした儒教の根本的な諸範疇についていうならば、それらは逆に幕末の最後の瞬間まで、その流通性を強靭に保持した、ともいえるのである。要するに、本書の基底に流れている「朱子学的思惟様式の普及と、それにつづくその漸次的な解体」とか、あるいは「自然から作為へ」といった進化論的図式が、どこまで歴史的実証に堪えるか、については少なからず疑問の余地がある。ただ、かりにその図式を全部破棄した≪としても≫、本書における個々の分析--たとえば徂徠学の内部構造とか、そのなかでの公的領域と私的領域との分岐の意味とか、徂徠学と国学との思想的連関について、前者における私的領域の解放が後者によって継承されたところに生じた、とかいった--分析の成果は、今後の研究の発展にも活かす余地があるのではないか、と現在の著者は不遜にも考えている。第二に本書の致命的な欠陥として目に映るのは、日本の朱子学の、まさに≪日本的な特性≫をほとんど考慮に入れず、とくに江戸時代前期の朱子学を「最も純粋な、(中国からの)直輸入的な朱子学」(本書日本語版、31頁〔本集第一巻154頁〕、註5)としている点である。たとえば山崎闇斎とその学派が朱子学について直系の正統をもって任じ、註釈による歪曲を避けるために、朱子の著述からの抜萃でもってその論著の大部分を埋めた、というのは本当である。しかし、果してその学派の、ものの考え方、あるいはテキストの選択や強調の仕方が、≪客観的に≫朱子学に合致していたかどうか、はまったく別問題である。むしろ彼等の主観的意図にもかかわらず、皮肉にもこの学派は日本朱子学と中国の≪それ≫との乖離を典型的な形で露わに示しているといってよい。もちろん、日・中の儒学の比較ははじめから本書のテーマの外にある問題であり、その点で著者は自分の当時の学力の不足をも含めて留保をすることを怠ってはいなかった(たとえば、日本語版30-31頁〔本集第一巻153-154頁〕の註2及び註5)。けれども、もし闇斎だけでなく、江戸儒学の出発点に位置する林羅山の学問がすでに朱子学の「修正主義的」理解のうえに立っていることを、もっと前面に押し出したならば、徳川儒教史の全体は本書とかなりちがったパースペクティブの下にとらえられることになるであろう。なお、比較という問題についていうならば、江戸時代の朱子学がその出発点からして、きわめて多くを負うている李氏朝鮮の朱子学、とくに李退渓の学問と思想を考察に含めることが絶対に必要であることを附け加えておく。朝鮮の思想史を軽視して、日本と中国とを主要な視野に置いて来たのは、史料利用の便宜という点を別にしても、私だけでなく、日本における「伝統」思想研究に多少とも共通する盲点であった。」(P.97~P.100)●「原型・古層・執拗低音--日本思想史方法論についての私の歩み--」(日本文化のかくれた形、1984年7月、岩波書店)(P.107~P.156)本論稿は、『日本文化のかくれた形』が出た時に購入して読みました。短く引用できる文章はありませんが、一文、全体ではないかもしれませんが一部を良く表していると思われる文章がありますので、それを引用します、全文は各自読んでください。「前にも出した例でいえば≪よそ≫の世界の変化に対応する変わり身の早さ自体が「伝統」化しているのです。」(P.154)安倍晋三の「未来」志向(「過去」の忘却)も、その淵源はこの辺りにあるのかも知れませんね、忍者の如き変わり身の「早さ」でしょうか。●「中野好夫氏を語る」(中野好夫全集月報11、1985年8月、筑摩書房)、(P.159~P.185)最近は、中野好夫の文章はほとんど読んだことがないですね。その昔、『酸っぱい葡萄』(1979年、みすず書房)を買って読んだことは記憶にあります。しかし、読み終えたのか、何が書いてあったのかについては、記憶がありません。東京都知事選(美濃部亮吉)、原水爆禁止運動の再統一問題等で、活躍していたのを知っているくらいです。引用したい箇所はたくさんありますが、一箇所のみの引用とします。「中野重治に「50歩100歩」という非常にいい随筆があります。「日本のモラルの中であれが一番いけない」と言っているんです。「50歩、100歩、どうせみな似たようなもんじゃないか」とすぐ考える。けれども、49歩逃げて、そこで踏みとどまった者のほうが、51歩まで逃げた者よりまだ2歩分はましだ、という考え方--これを身につけなければいけない、という意味のことを言っています。むろんこれは転向論に関しての話ですが、ほかならぬ中野重治、あの心情倫理の権化みたいな中野重治が戦時中の体験について言っているんです。つまり、50歩・100歩--どうせ転向したんじゃないか、みんな同じだというのは、現実には最大の転向者、仲間への裏切りまでふくんだ転向者を、ギリギリに頑張ったものと同列にならべて責任を解除することになるんです。中野好夫さんだってほんとうの考え方はこの場合の中野重治と同じだ、と思いますよ。ベターなもの、というよりは≪悪さ加減≫のより少ない方向を選んで、政治的選択をやっているんです。「私の消極哲学」という題の巻が著作集にありますが、「消極哲学」という考え方がまさにそれを示しています。ぼくは政治問題については晩年は必ずしも中野さんの意見に賛成ではなかったけれども、しかし中野さんだってたとえば社共の連合がベストだと思ったわけではないでしょう。中野さんの判断として、現実の状況の中で、悪さ加減のより少ないもののほうを選んだにすぎないと思います。ただ、具体的な状況判断のちがいの問題は残りますが、基本の考え方は同じです。ところが戦争の問題なんかになると、ニヤニヤ傍観しているか、でなければ戦争に協力するかという二者択一になってしまう。ある状況下では懸命の傍観と、「ニヤニヤ傍観」とは具体的な態度としても非常に違ってくる。もし一億国民が断乎として「傍観」していたら、いくら支配者が号令をかけても精神総動員はできなかったでしょう。ストライキにおけるサボタージュ戦術にあたります。繰り返し申しますようにこれは中野好夫さんの言辞を責めているんじゃない。責める資格なんか毛頭ないんです。しかしはからずも中野さんが用いたそういう形容詞の中に、ぼくらの時代よりまだましないわゆる大正デモクラシーに育った知識人、しかも明治以後の教育を小学校から叩き込まれながら少なくとも少・青年時代に国家権力からひどい目に会わされたという経験をもたなかった世代の、≪ある≫盲点があったということを感ぜざるをえないのです。これは中野さんの「自由主義者の哄笑」とか、「どうせおれは臆病者の日和見主義者だ」とか、いわば開き直りともとれる態度にあるあまりにも≪まじめな≫態度のもっている落とし穴なのであり、しかもそれは先ほど述べたような日本の精神風土の中に中野さんの全人格をを置いてみる時、実によく理解できる態度だったという結論になるんです。」(P.183~P.184)「明治以後の教育を小学校から叩き込まれながら少なくとも少・青年時代に国家権力からひどい目に会わされたという経験をもたなかった世代」(P.184)というフレーズの「明治」を「中曽根康弘」とか「小泉純一郎」とか「安倍晋三」とかいう「政治屋」の名前に置きかえると、今の40歳台以下から現在、今後に続く世代にそのまま当てはまるようで、恐ろしいかぎりです。「道徳教育」も念が入ってきていますから。●「竹内日記を読む」(ちくま、1982年9月号、筑摩書房)(P.25~P.39)一箇所、引用します。標題に掲げた文章と通じる内容です。「□啓蒙と進歩の精神・・・・・丸山だから好さんは否定を媒介にした啓蒙なんです。根本的には啓蒙者なんだ。ただ、すさまじいニヒリズムをくぐった啓蒙なんですね。好さんが根本的に啓蒙者だからこそ、価値判断の根っこのところは非常にがっちりしている。進歩と反動の区別≪自体≫がナンセンスだという考え方にはけっして与(くみ)しない。ただ歴史必然論と単線進化論にははげしい抵抗感があるから、その時点時点での歴史の可能性の幅に着目しながら、マイナスをプラスに翻転させる途をさぐろうとするわけです。もし進歩の観念自身が無意味なら、そもそも人間が歴史を経て来たということにどういう意味があるのか。啓蒙というのは、やはりある方向を価値とし、ある方向を≪反≫価値とする前提があって、そうした価値が、ジグザグを経ながらも蓄積されてゆくことに歴史の意味を認めてはじめて成り立ちます。その点はニヒリズムの面だけで好さんを捉えようとするとわからないところです。」(P.33)●「「日本浪漫派批判序説」以前のこと」(橋川文三著作集月報7、1986年2月、筑摩書房)(P.261~P.285)橋川文三については、「丸山学派」の一員との話でしたし、書評者が大学に入ってすぐに買った『現代政治の思想と行動』に入っていた「未来社の人文・社会科学書(1972.4)」というビラにも『近代日本政治思想の諸相』(橋川文三)とありましたので、その著書を買って読もうとずっと思ってはいました。しかし、この丸山眞男のインタビューを読んで、今後、橋川文三の著書は読むことはないだろうと思いました。その他、引用はしませんが、興味深い論稿名をいくつか下記します。●「海賊版漫筆」(図書、1983年3月号、岩波書店)(P.61~P.74)●「高木八尺先生のこと」(UP、1985年9月号、東京大学出版会)(P.195~P.203)●「金龍館からバイロイトまで--オペラとわたくし--」('60、第13号、1985年12月号、'60の会)(P.241~P.258)●「野田良之さんのこと」(みすず、1987年1月号、みすず書房)(P.303~P.315)●「追想」(追想大窪愿二、1987年9月、大窪愿二追悼集刊行会)(P.364~P.359)

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