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言語学者が語る漢字文明論 (講談社学術文庫)
田中 克彦 / 本
無料ダウンロード言語学者が語る漢字文明論 (講談社学術文庫) pdf - 田中 克彦による言語学者が語る漢字文明論 (講談社学術文庫)は講談社 (2017/8/10)によって公開されました。 これには312ページページが含まれており、本というジャンルに分類されています。 この本は読者からの反応が良く、7人の読者から4.4の評価を受けています。 今すぐ登録して、無料でダウンロードできる何千もの本にアクセスしてください。 登録は無料でした。 サブスクリプションはいつでもキャンセルできます。
言語学者が語る漢字文明論 (講談社学術文庫) の詳細
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タイトル
言語学者が語る漢字文明論 (講談社学術文庫)
作者
田中 克彦
ISBN-10
4062924455
発売日
2017/8/10
カテゴリー
本
ファイルサイズ
30 (現在のサーバー速度は26.09 Mbpsです
無料ダウンロード言語学者が語る漢字文明論 (講談社学術文庫) pdf - 内容紹介 漢字は言葉ではない。記号である。漢字にはオトは必要ない。どの言語ででも漢字を「訓読み」できる。では、中国文明の周辺地域を含めた「漢字文化圏」とは自明のものなのか。歴史上の突厥・契丹・西夏・女真・モンゴル文字など、漢字からの自立運動は何を意味するのか。漢字を残す日本語は独自の言語であることの危機に瀕しているのか。言語学者が考察する文字と言語の関係。 内容(「BOOK」データベースより) 漢字は言葉ではない、記号である。漢字にオトは必要ない。どの言語でも漢字を「訓読み」できる。では周辺地域を含めた「漢字文化圏」とは自明のものなのか。歴史上の突厥・契丹・西夏・女真・モンゴル文字など漢字からの自立運動は何を意味するのか。漢字を残す日本語は独自の言語であることの危機に瀕しているのか。言語学者が読む文字と言語の関係。 商品の説明をすべて表示する
カテゴリー: 本
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漢字を捨てなかった日本。英語の公用語、日本語のローマ字表記といった危機があったにもかかわらず、日本人は賢い選択をした。漢字かな交じり文を読める幸せやその重要性を日々かみしめている。本書旧版の題名は、『漢字が日本語をほろぼす』である。初めは、この題名を読者を驚かすための悪い冗談かと思った。しかし本書を読み終えて、筆者が本気で考えていることがわかった。突っ込みどころ満載の著作である。レビューが長くなりそうなので結論を先に書く。本書は、言語学や様々な外国語を学んだせいで著者が理想とする言語を頭の中に作り出してしまい、言語学という殻の中で、漢字使用における日本語の不完全さがどうしても我慢ならないという著者の感情を露呈したものである。著者は、ご自身の主張を理路整然と懇切丁寧に記述することを諦め、あるいは不可能であるため、読者に主張が伝わらないことの苛立たしさや嘆きを、専門である言語学の知識や外国語の素養を所々にぶちまけ、鬱憤を晴らしている。全体を通して支離滅裂とは言わないが、論拠の雑ぱく性や飛躍が目立つ著作である。もちろん浅学なレビュー者の指摘であるので的外れかもしれない。この問題に興味のある方は言語学の大家による本書を手にとって自分で確かめてほしい。(難しい術語や漢語はわるいのか)「医学用語がこんなにむつかしくなっているのは、たぶん、医術の秘術性をまもり、医者と患者の間の距離をひろげるためだったのだろう。すくなくとも、医学はしろうとが口を出してはいけない聖域としてまもり、そこに民間の俗な用語をすべり込ませてはいけないという心理が働いていたのだろう。」(p.35)著者のやり玉に挙げられた語は、「分娩」と「耳鼻咽喉科」だ。確かに難しく漢字の書き取りで出されたら正確に書ける自信がない。お雇い外国人が多くいた明治の初期、先端の医学を知るためには外国語で学ぶしかなかったであろう。漢学に素養のある若者が必死で学び、医学の専門用語を日本語として定着させていったのである。あるいはオランダ語で学んでいた江戸時代、すでに漢訳されていた用語もあったのかもしれない。当然中国経由の言葉もあったはずだ。重要な点は、あらゆる分野の学術用語が日本語に訳され、お雇い外国人から日本の教授陣に変わり、日本語のテキストで学べるようになっていくことだ。当然、学生の外国語力は低下することになるが、日本国民全体にとっては、それ以上の益があった。著者は、分娩にあたるドイツ語の「Entbindung」がわかりやすいとしているが(p.34)、ドイツ語の素養がない者にとっては、わかりやすいもへったくれもない。以前、立花隆氏のがんに関する著作を読んだことがある。確か自身の膀胱がんをきっかけにした、がんとは何かの本質を素人にもわかるように記述された興味深い本であった。難しい漢訳語といえば「膀胱」だって同じである。漢学に素養のあった江戸と明治人が創出した術語であれば、現代人にとっては難しく感じる傾向になるのは仕方がないことだ。どうしても難しくて馴染まないのであれば自然と使われなくなるであろうから目くじらをたてない。それよりも、不真面目な生徒であった私が医学の啓蒙書を読めるのは、先人と学校教育のおかげである。先人の努力を素直に感謝したい。高度な科学は、英語でしか学べない国があるという。術語が母国語に訳されていないからである。日本は、自分が知りたいと思ったことは、ほぼ全てを母国語で読むことができる有難たい国である。(日本人の文章語)「当時、日本人が自分の母語=日本語で書くための文章語がなかったということを語る、興味深い次のようなエピソードがある。」(p.29)この文章を見たときはびっくりした。いくら何でも文章語がなかったと言い切るとは驚いた。当時とは1872年のこと。エピソードとは、芝五郎の『ある明治人の記録』に関することである。私も、この作品は読んでいるが、なぜ芝五郎の例が、文章語がないという根拠になるのか全くわからない。著者が引用した同書からの引用部分を掲載する。①「国語、国史、終身、習字などいっさいなく、数学の九九までフランス語を用い、地理、歴史など教えるもフランス本国の地理、歴史なり。」(石光真人編『ある明治人の記録』一〇二)②「正式に日本文、漢文、日本の地歴を学ぶ機会がなく、このことが私の生涯において長い間苦しみになりました。[・・・・・]フランス語なら不自由なく読み書き喋れるのに、日本文が駄目なのです。ここ[本書]に書いてある文章と文字、いずれも死後に残す自信がありません。よけいなことをお願いして済みませんが、添削してください。」(同一三一~一三二)この引用文の後に著者は、「とまで、自分の日本語を恥じているである。」(p.30)と続けている。柴五郎氏が自分の日本語を恥じているから、文章語がないとするならば、これはとんだお門違いである。長くなるが再度、原典から、省略されているを部分も含めて引用する。②「私は少年時代に戊辰戦争のために勉強する機会がありませんでした。その後も下男のような仕事をしていたので、充分な教育が得られませんでした。幼年学校に入るときは、文字どおりの泥縄、一夜漬けで、野田豁道閣下のお陰で合格しました。合格してみたら、意外にも幼年学校の教官はすべてフランス人で、私たちもフランスの軍服を着て、フランス語でフランスの地理、歴史、数学などを学び、正式に日本文、漢文、日本の地歴を学ぶ機会がなく、このことが私の生涯において長い間苦しみになりました。その頃の教育は、新しい外国の学問がどんどん入って来て、小学校などはアメリカの教科書の翻訳でしたが、上級に進むにしたがって、やはり漢籍による文章の訓練が行われたのです。そのような基礎教育を充分受けられなかったので、フランス語なら不自由なく読み書き喋れるのに、日本文が駄目なのです。ここに書いてある文章と文字、いずれも死後に残す自信がありません。よけいなことをお願いして済みませんが、添削してください。」(石光真人編著『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書-』p.131,132)柴五郎の生まれ年は1859年で、会津若松城落城が1868年、陸軍幼年学校入学は1873年の十五歳であった。この間の苦難は本書に記されていて胸に迫るものがある。上記の引用文を読めばわかる通り漢籍や日本文の素養は、幼年学校入学の前提条件であったのである。事実同期入学した者の中には大学南校からの転入組もいた。もっともこの時期は維新後の混乱期、過渡期であり、また実験的な要素があった。教官がフランス人ならフランス語でやるしかなかったのである。フランス式になったのは、日本人の教官や日本語による教育の準備が整っていなかった時代背景によるもので、日本の文章語とは関係がない。数年の後、フランス人教官は、徐々に日本人の教官に代わっていく。また、柴五郎は文章を書けなかったわけではない。戊辰戦争の混乱で教育の機会を失い自信がないので添削して欲しいと慎重な態度を示しただけである。言文一致に貢献した二葉亭四迷も外国語学校で同じようにロシア式の教育を受けている。確かロシア語の文章はよくわかるが、日本の文章は自信がないと書いていたように記憶する。陸軍士官学校に三度挑戦したが入学を許されず、外国語学校に入学したのは1881年の17歳で兄貴分であったという。本人の自信とは関わりなく、陸軍士官学校を受験した14歳の時点で漢籍や日本文に関するかなりの実力があったと想像される。そもそも著者が、この本(『ある明治人の記録』)を持ち出したのは、森有礼の英語公用語論を擁護するためであった(p.28)。この時期に日本語の文章語なかったとする方が筆者には都合がよいのである。著者は、英語公用語論やローマ字表記論者の動機に理解を示している。なぜならば、音を表す以上の働きがある漢字で日本語の音を表記することに我慢がならないからである。また筆者は、漢字なしのハングル表記を評価している。おそらくこれが筆者の理想に近い表記法なのであろう。私は「漢字かな交じり文」が日本の文章語の最終的な答えであると思っている。文体や漢字使用に変化はあるかもしれないが漢字を捨てた日本の文章語は考えられない。(子どもと漢字と大人)<忘れられた、おとなとこどもの言文一致>という小見出しのページがある。書き出しはこうである。「日本の近代化が漢字をもって行われたこと、このことが他の近代諸国語の言語共同体には見られない大きな亀裂をのこすことになった。その一つが、おとながこどもを書きことば言語共同体から排除したことである。こどもとおとなを言語的に引き裂くというのは言語共同体の造成に致命的な損失となる。児童文学という特別な文学空間、ジャンルがあることは理解できる。しかし、こどもには読めない文字を、平気で日常の実用言語に用いているということは他の近代諸言語にはないことである。」(p.94)漢字や漢字かな交じり文を暗に批判しているのだろうか。何が言いたいのかよくわからない。読み進めるとだんだん横道にそれて、いつのまにか筆者のよく理解している言語学の話になってしまう。本書の最大の欠点は、筆者が理想とする日本の文章語を示していないことである。私はこどもの頃から、自分の興味関心のおもむくままに読書をしてきた。高学年になるまでは、田畑や町中をガキ大将統率の異年齢集団で徘徊していた。動植物の名前、採取法、飼育法、集団遊びの方法などは人から学ぶという完全な耳学問であった。それはそれで楽しい懐かしい思い出である。高学年になり、単独行動を好むようになってからは、宇宙や進化のこと、人間の意識の不思議さなどを自分の言葉で考えるようになった。読書が役立つことを身をもって体感するのもこの頃である。自分の小遣い、自分の問題意識で購入した記念すべき第1冊目が、タイムライフ社の『宇宙』であった。私は、予習も復習もせず授業中は、ぼけっとしている極めて不熱心な生徒であった。しかし、この大人向け本は驚きをもって読んでいた。当時の私の学力では読めない漢字が多々あったと思う。それでも読み進めることができたのは、漢字や漢語の力によって意味を推測することができたからである。宇宙はどれくらい大きいかというページを見たときには、人生の一大事であるような思いがした。中学生になって読んだ相対性理論の啓蒙書に興奮し、量子論の世界にふれた時は大いに驚嘆した。最近読んだ、「人工知能」や「量子コンピュータ」の本には久しぶりに衝撃を受け、自分の知る世界が広がった。重要な点は、漢字かな交じり文であれば、子どもにも読めるいうことである。子どもであっても術語や漢語の力によって抽象的な現代宇宙論の世界を知ることができる。自然科学に限らず日本はあらゆる分野の啓蒙書があり、その読者層の裾野は広い。大人も子どもその分野の学術用語(漢語等)をごく自然に使うようになり、術語を通して子どもと大人がつながる。そのよい例が「夏休み子ども科学電話相談」である。分野ごとに回答者の先生がいて、子どもの年齢にあわせて言葉を選びながら回答する。大人も聴いているに違いない。その分野とは、天文・宇宙、科学、動物、植物、鳥、水中の生物、恐竜、心と体、ロボット・AI、などである。ここにも漢字による術語がごく自然に使われている。(漢字文化と漢字学習)筆者は、外国人にとって、漢字が日本語の学習を困難にさせていて、今の日本語は内向きの効率の悪い言語だとしている。果たして本当にそうであろうか。漢字の学習は工夫次第では楽しく行うことができ、むしろあるレベルまでの漢字を克服すれば、日本人と同じようにあらゆる分野の書籍が読解可能となる、むしろ効率のよい言語である気がする。学習用には「漢字ラテン文字交じり文」があってもよいと思っていた。例えばこんな具合である。・ I want to go to a 歯科.・ Brush your 歯, please.幼児への漢字教育で有名な石井勲氏は、自身の実践経験から従来の国語教育の誤りを次のように指摘している。①漢字は難しく平仮名から漢字へという思い込み。②漢字は字画が少ない方が覚えやすいという思い込み③学年が進むにつれて漢字を覚える能力が高くなるという思い込み。④ことばより文字(漢字)を覚える方が難しいという思い込み。(石井勲『幼児はみんな天才』p.168)抽象的な「九」より具体物である「鳩」の方が覚えやすいということだ。工夫次第では、親が子に絵本を読み聞かせるように、漢字という素敵な媒体を通して、大人も子どもも楽しい時を過ごすことができる。漢字が伝わって、もう千五百年以上もたっているのだから、漢字は日本人の血肉と化している。たとえ、中国の留学生から、「先生、日本はいばってみても、漢字なしでやっていけないのだから文明的には中国の一部じゃないですか」(p.283)と言われたとしても、大人の対応をすればよい。なぜならば、全ての知識、知恵、仕組み、道具は、日本を含めた、どこかの国からの由来なのだから。ラテン文字も。(漢字の未来)著者にとっては、不完全さの象徴である「漢字かな交じり文」の読みやすさは、誰でも経験しているところである。速読法を習ったことはないが、ある分野の書籍を集中的に読んでいるときには脳が活性化し、文字を音に変換せず漢字を目で追って自然に速読していることがわかる。筆者が何と主張しようが、漢字を図として認識するこの利点を生かすことを日本人はやめないであろう。もしかしたら、今後、漢字をやめてしまった漢字文化圏の国でも、日本の漢字かな交じり文にならって、再度漢字を復活させようとする機運が生じるかもしれない。米国では、かなり以前から漢字を使って英語を学ぶ実践があることを知っていた。(石井勲『石井式漢字教育革命』p.39)日本語や漢字への海外からの関心は、単に言語の学びやすさ学びにくさ、言語の完全さ不完全さだけでなく、日本人や日本文化の魅力によって高まる。日本の漢字文化は、日本を魅力的にしている大きな要素である。野球の大谷選手は、日本史が好きで勝海舟の『氷川清話』を読んでいるという。これは素晴らしいことだ。漢字かな交じり文を読めることで、時空を超えて勝海舟と対話できるのだから。福沢諭吉でも渋沢栄一でもそれは同じである。漢字かな交じり文を学ぶことによって千年前の日本語さえ読むことができる。百人一首を全部暗記している子どももいる。こうしたことが、結果的に大和言葉を生かすことになる。著者のいう日本語のヤマト化より日本語の漢化を好んだという主張は(p.36)、必ずしも当たっていない。漢字がなくなったら、やまとことばもへったくれもない。大和言葉の良さを自覚できなくなるからである。彗星(すいせい)=ほうきぼし、流星(りゅうせい)=ながれぼし、牽牛星(けんぎゅうせい)=アルタイル=彦星(ひこぼし)=わし座α星等、漢字への理解があってこそ、その人の言語感覚、用途によって使い分けることができるのである。ノーベル物理学賞の湯川秀樹氏は、幼少期に祖父から本格的な漢籍の素読を習っている。湯川氏自身は老子、荘子を好んだという。(湯川秀樹『旅人』p54~)漢字による脳への刺激が、秀樹少年にどのような影響を与えたかはわからないが、少なくともご自身は、その後、大人の本を読むときに文字への抵抗が全くなかったと言っている。筆者は「あとがき」で、小説における漢字使用の調査結果(減少傾向)から、180年後には漢字がなくなるという予言に勇気づけられもすると書いている。「勇気づけられもする」というのは著者にとっては抵抗勢力の人為的な働きを憂慮してのことか、あとがきでも著者の論旨はつかみにくい。読み進めることを、大木の根元から先端を見つめる視線の移動にたとえると、気がついたら「あれれ、大木がゆっくり倒れている」という感覚である。私にとっては、反論するにしても最後まですっきりしない著作であった。専門家の主張であっても、甘言、妄言に惑わされず、自分の頭で考えることが肝要であることを改めて自覚した。(追記)もしわたしがへんしゅうしゃだったら、このないようとだいめいで、こうだんしゃがくじゅつぶんこのいっさつにくわえることにはそうとうちゅうちょしたとおもう。本書が著者との出会いの第1冊目だったら、著者の作品は二度と手に取らないであろう。実は、著者の別の作品を読んでいることを思い出した。新書の『エスペラント-異端の言語』である。本書とは違った印象を持っていた。個人的な関心から、著者は新たなエスペラントの知識を授けてくれた。本書でもっとも興味深かった箇所は、ウラル=アルタイ諸語に関する記述である。ところが、このエピソードは、第4章の(「脱亜入欧」から「脱漢入亜」へ)という何だか分かりにくい大きなくりりの中で述べられているので、落ち着いて新知識を理解、吸収することができない。私にとって意味のある啓蒙書とは、新知識が正確に解り易く記述されたものである。著者が繰り返し主張する日本語の不完全性への言及は、みんなうすうす感じている。著者よりも頭の悪い私には、著者の言及は余計なお節介に聞こえてしまう。それでも、漢字かな交じり文の有用性を感じているから、みんな使っているのだと。何よりも漢字かな交じり文を批判する著者の本書が、こてこての漢字かな交じり文でできている。このことで、著者の主張には無理があることの証明になっている。著者が無理をして、片仮名を使っている箇所は、滑稽ですらある。「人の精神をヒクツ」(p.103)が「ヒミツ」に、「ダラクした人物」(p.106)が「ラクダ」に、「反人民的特権思想の巣クツ」(p.172)が「巣のクソ」に見えてしまう。本書の最後の方に結論らしきものを発見したが、私には負け惜しみに聞こえてしまう。「私は聞いただけでは意味がわからず、目で見なければわからない文字で書いてあるような、つまり外国人には想像もできないような文字言語―でない日本語で書きたい、そういうふうに言うと、私の本の読者は、おまえさんの文章こそ漢字が多いぞと指摘する。そのとおりだ。しかしそのような目で私の文章を批判する人は、私以外の人の文章も、また自分自身が書く文章も批判的な見る見方が獲得されている。このようにして漢字を仕分けるモーターがかかるのが、脱漢字プロセスの第一段階である。」(p.273)残念ながら、私の場合、文章を批判的に見る目は、著書の知見や指摘によるものでなく、長い読書生活の中で見出されたものである。例えば、ダーウィンの『種の起源』は、二十歳ぐらいで読んだが、読み終えることができなかった。その時は、自分の学力や理解力のなさのせいにしていた。読み終えたのは、新訳がでてからである。それでも読みにくかった。後にダーウィンは文章に自信がなかったということを知った。進化の法則を独自に発見していたウォレスの方が文章がうまかったと指摘されている。作者の学識とは関係なしに、文章の上手い下手、説明の巧み稚拙、等があることを、今まで多くの啓蒙書を読んで感じてきている。ただし、漢字かな交じり文は必要不可欠であるという前提は、子どもの頃から変わらない。子どもや外国人には配慮や工夫が必要だが、子どもや外国人に遠慮して愚民化を促進させるような日本の文章語変革など必要ない。私は最新の科学を説明する日本語に関心がある。興味のある子どもだったら読めるかという視点でも読んでいる。そのためには変なカタカナより少し難しくても漢語がよい。変なカタカナ語ではないが、量子コンピュータの本を読んでいて、アニーリングという語を、初めはアニーとリングでイメージしてしまった。サイクロトロンのような輪のイメージがあったからである。英語のスペルを見てアニールであることを理解した。アニール(焼きなまし)は、光学レンズに興味があり、本でも読んでいたので知っていた。権力者が庶民をごまかそうとする時、難しくても漢語であるとバレてしまうので、今では、変なカタカナ語を使うことが多い。これは良くない傾向だ。変なカタカナ語よりは、著者の嫌いな漢語の方がよっぽどよい。子どもにもイメージできることが大切だ。漢字で子どもの脳を刺激して、知識を日本国民で共有し、よりよい日本、よりよい世界にしたいものだ。著者には、相対性理論や量子論、現代宇宙論の啓蒙書をおすすめする。得意のドイツ語ではダメである。日本語や漢字の力によって著者の世界が言語学から宇宙や森羅万象に広がることをお祈りする。
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